「シン・ゴジラ」の残した爪痕、警鐘

映画「シン・ゴジラ」を見たので感想を書きます。

エンタメ映画としての感想も最後に少し書きますが、おもに「社会派映画」として見た場合の感想です。ネタバレはあります。

本作の「ゴジラ」が象徴するのは自然災害ではない

本作「シン・ゴジラ」においてゴジラという巨大生物が作中で引き起こす被害は、火災・津波・建物の倒壊です。これらの映像から思い起こされるのは、当然ながら各種大規模地震、台風、火山の噴火などの「自然災害」であると言えるでしょう。それこそなんらかの震災直後であれば公開は不可能だったのではないかと思われるほどの「再現性」がありました。

しかしながら、ゴジラが象徴するのは自然災害ではありません。先述の通り、映像の作り方としては災害を意識したはずですが、そのまま自然災害を意味するものではないと私は考えます。

なぜなら作中で明確に、「ゴジラは災害ではなく生き物だ」「ゆえに駆除が可能だ」などと言及されているからです。分かりやすく災害の象徴、ある種の悲劇として描くつもりであれば、あのようなセリフをわざわざ入れる必要性を感じません。

1954年の「ゴジラ」が先の大戦や当時の環境破壊に対するメッセージを内包していたように、本作のゴジラは現代において「人為的に駆除が可能であろうと想定される」なんらかの脅威を背負った生物であり、この国に害をなすものとの戦いを意識させる作りになっているのだと思います。

さて、ではその「なんらかの脅威」とは具体的になにか、と考えると、意外に多くの可能性が浮かびます。単純に他国の軍事力かもしれないし、テロやクーデターも絶対にあり得ないとは言い切れないでしょう。「生物」に近いものとして考えるのであれば細菌やウィルスによるパンデミックも現実的な脅威です。あるいは、シリアルキラーが大規模な傷害事件を引き起こすかもしれません。

それらが現実に起こったとき、果たしてこの国の中枢は本作のように「完璧ではないにせよ最善」を尽くせるでしょうか。自然災害ならば初動が後手にまわるのは仕方がないかもしれませんが、まったく別種の脅威だとすれば、その脅威について想定し、備えることもできるはずです。しかし具体的な危機感を、いったいどれだけの人が持っているでしょうか。

本作のゴジラは、我々にそれを問いかける存在であったと思います。作中に描かれる危機意識の甘さ、日本的な様式美の滑稽さは、警鐘でもあるだろうと私は思うのです。

ただ本作のもっとも素晴らしいところは、こうして警鐘を鳴らしつつも到達すべき理想、すなわち希望がきちんと表現されている点です。本作におけるゴジラの脅威は、単なる「脅し」にとどまりません。

なぜなら、結局作中の人々は「勝つ」からです。現代の科学技術ではまだ人類が勝つ見込みの薄い自然災害ではなく、駆除つまり対策が可能な脅威を引き合いに出すことによって、「勝てるイメージ」をより強く裏付けられている。奇跡に頼らず人事を尽くして困難を克服するドラマが無理なく表現されているわけです。

これこそが、さまざまな災害に見舞われつづけ、疲弊した現代日本がもっとも必要としていた希望ではないでしょうか。

作中の官僚・政治家が現実離れして描かれる理由

矢口や赤坂の活躍を見て、「こんな官僚がいるわけない」「リアリティがない」と噛みつくような感想を散見したので、彼らが現実よりはるかに「格好良く」描かれた理由について私の推測を述べます。

「矢口たちがいなければ脅威に敗北する」からです。現実味のある政府を描いたとして、ゴジラに勝てなければドラマとして成立しません。

つまり、「国の中枢が今のまま、現実にあり得る状態のままであれば、決して『ゴジラ』のような脅威に打ち克つことができない」と我々に突きつけるのと同時に、「だからこそ、国の中枢に矢口をはじめ巨災対メンバーのような人材が存在してほしい」という願望も含まれていたのではないかと私は思います。

作中ラストシーンでも赤坂が、「ここまで壊れたのだから、この機会にいちから作り直す」というようなセリフを述べています。それくらいの覚悟でこれまでの仕組みを見直すことができれば、「ゴジラが再び動き出す日」が来たとしても対抗できるだろう、と。

ゆえにリアリティがないと感じられるのは真っ当だと思いますし、その一方で、「こういう人たちがいたらなあ」と思うのであれば、このリアリティのなさこそを皮肉と捉え、改めて現実と向き合うべきではないかと思います。

なお、電話機に貼られたシールや、整然と並べられた机にコピー機、自衛隊が動く際の伝言ゲームなど、どの映像も「リアルに」よく作りこまれていたと私は思いました。

プロフェッショナルの活躍とデスマを混同してはいけない

さて、官僚や政治家については先述の通りですが、巨災対メンバーをはじめ凝固剤作成に関わる企業など、いわゆる「不眠不休で」「家にも帰らず」仕事に取り組むさまを肯定的に描くシーンについて、「ブラック企業」だとか「デスマ」だとかのキーワードで批判する感想も見かけました。

本作で描かれる彼らの命がけの「仕事」は、会社という組織による違法労働の強制とはまったく異なるものです。そう見えないのだとしたら、既に心に不治の傷を抱えつつある可能性があるので会社なんか今すぐ辞めたほうがいい。

どこが異なるのかといえば、彼らの仕事は「有事」に際して、彼ら自身の意志で提供されている点です。

実際に自分たちの住む国が想定外の脅威に晒されたとき、おそらく作中と同様に「人々が力を合わせて」立ち向かうことになるでしょう。万能のヒーローが突如現れて解決してくれるわけではなく、少しずつ知恵を出し合い、できることを積み上げ、地味で根気のいる戦いを強いられることになるはずです。

つまり有事の際に必要とされるのは、尾頭や安田のように専門性を突き詰めた「個の力」であり、それらの集大成です。

少し想像力を働かせると明らかだと思いますが、たとえば彼らのような人材が、普段から会社や組織など、なんらかの強制力によって労働させられていると思いますか。理不尽な規則に縛られ、こき使われて、神経をすり減らしているでしょうか。そんなことはないはずです。

彼らが本気になり、寝食も惜しんで事態と向き合ったのは、専門家としての自信とプライドと、そしてそんなときでも失われることのない好奇心を強く持っているからだと思います。

作品冒頭で「上陸の可能性はあります」と進言した尾頭のように、権力に媚びることなく自らの高い専門性を発揮できる人材。安田のように研究に没頭しつつも各企業とのパイプを持ち、ちっぽけな損得勘定につぶされず惜しみなく情報をばら撒くことのできる人材。間教授のように、突き詰めて考え続けることで「(放射性廃棄物を今は)食べてない」「折り紙」のような突飛なアイディアをふと思いついてしまう人材。

巨災対の描写がブラック企業を思わせるなんてとんでもない、むしろまったく逆ではないでしょうか。現代社会に彼らのような人材がのびのびと活躍できる環境が少ない、それどころか、右へ倣えのこの国で彼らが厄介者扱いされがちな現状を痛切に皮肉った描写だとすら思いました。

これも「官僚・政治家におけるリアリティのなさ」と同じく、有事の際に巨災対のような専門性の高いチームを組織できるか否かを我々に問いかける、ある種の警告のように私には感じられました。

統合幕僚長の財前が少しだけ口角を上げて「仕事ですから」と言うシーン、あのセリフにおける「仕事」の重み、責任と覚悟について、今一度考える必要があると思います。誰に強制されるわけでもなく自らの意志で、命を賭してでも「仕事」に取り組める人材が、今の日本にいったいどれほど育っているでしょう。

いや、実際にそうした人々が存在し、スポットライトの当たらない場所で活躍し続けているからこそ、辛うじてこの国は今も平和を保っている、災害から立ち直ることができている、と考えるべきなのかもしれません。

また、「自衛隊ばかりが活躍している」といったような批判も見かけましたが、自衛隊自衛隊で専門性を発揮しただけだと思いましたし、肝心の作戦は武力による攻撃・撃破ではなく、寄せ集めメンバーが必死の思いで完成させた血液凝固剤による凍結でした。

警鐘を鳴らしつつも、それを意識させないエンタメ映画としての強さ

映画は興行ですから、思想のみでは成り立ちません。思想が強く出過ぎると過剰な反発を呼ぶだけで、まともな議論も発生しない、いわゆる「誰も得をしない」状態になります。

その点、本作「シン・ゴジラ」は、ある種の思想を含みつつもエンタメ映画の枠組みから外れるものではなく、恐怖と興奮と快感をきちんと感じられるように作られていたと思いました。テンポよく繰り出される明朝体、音楽や効果音による静と動のバランス、思考するまでもなく、五感に訴える演出がまずきちんと機能している。

そもそも「ゴジラ」の映画といえばつまりゴジラという脅威が出現する話なのだから、結果がどうなるかというと、人類が勝つか負けるかの二択であることは容易に想像がつきます。人類が負ける話をわざわざ作るわけがないので、かなり多くの人が勝つ前提で見ている、完全なる出来レース、王道です。我々はいちいち余計なことを考えず、過程のみを純粋に楽しむことができます。

後半になるほど脚本が雑という批判も見かけましたが、2時間程度の枠に収めるには仕方がないでしょうし、出来レースを見るにあたって脚本に妙技を求めるのはいささか無理があるようにも思います。加えて、「出来レース」とは言いつつも、ゴジラを駆除するために熱核兵器を使って都心ごと爆破しようとする米国及び安保理多国籍軍に対し、日本の選んだ道は破壊でも自滅でもなく「凍結」、つまり「共生」に近いものであり、単純な「勝利」の図式からはやや外れた着地点が提示される点も巧みだと思いました。

また、視覚・聴覚に訴えかけるアクションシーンの数々は、話の筋などまったく分からなくても楽しめる迫力を持っていると思います。とくにVFXの素晴らしさは昨今随一、着ぐるみやミニチュアとはまた違った新時代の職人技が光る出来栄えであると思いました。

ほかにも、過去のゴジラエヴァシリーズを思わせる演出・音楽や、最後の尻尾の人骨らしきものの謎、牧博士の行方など、オタク的な「追究の楽しみ」の散りばめ方も見事です。「考察好き」にとってもたまらない作品にあたるでしょう。もちろんキャラクターの魅力も忘れてはいません。腐女子的な(※私は腐女子ですので)楽しみも大いにありました。

このようなエンタメ映画としての圧倒的な強みと、先に述べた思想・風刺・皮肉といった現実に対するメッセージが無理なく同時に含まれる点で、やはり本作「シン・ゴジラ」は傑作であると主張せずにはいられません。

現代の日本を見通して、絶望と希望、恐怖と快感を同時に届けることのできる作品が、しかも今、連続的な災害・事故により国中に常に厭世的なムードが漂っている今このときに劇場公開されたということにも、大きな意味があるのではないかと思います。

おわりに

当たり前のことばかり言語化してしまったような気もしますが、こういった視点の感想をほとんど見かけなかったので、自分で書くことにしました。

オタク的な解釈遊びも大好きです。ロケ地も巡りたい、いつかそういうのも書きたいです。