ルービックキューブが教えてくれること

自分の無意識下の思考パターンに気づいた。それだけ。

単純なことを単純だと知ることには自分にとって大きな意味がある。というより、それを知らないままでいることは苦しい。苦しみから逃れるために必死で単純なことを単純だと証明しつづけている。
だから、苦しんだことのない人から見ればルービックキューブはただの遊び、ただのゲーム。読まなくていい。
あとこれが群論に見える人はちょっと体育館の裏まで来なさい。

まずルービックキューブが最初から手続き型のゲームに見えるタイプがいる。問いが自明で、解に向かって正しいアプローチを取ることが自然にできる人たち。解くことを楽しむ人。彼らは迷わない。迷う意味が分からない。解に到達する時間の差こそあれ、自力でそこに到達する。

次に、ルービックキューブに解法とパターンがあることを知ったのち、知識や技能の一種としてそれを蓄えることが好きなタイプもいる。パターン化されたものに、パターンを覚えるという価値を付加する人たち。または、単純に指先を動かすことが好きな人。解く道筋に大きなこだわりはない。タイムアタックまで含めて楽しむ。

私はこれらのどちらでもない。正確に表現するなら、どちらのパターンも知っているし実践したことがあるが、ルービックキューブに対してはこの限りではなかったのだと思う。

私はそもそも解の有無すら規定したくない。物事の観測者であることを選択しがち。苦しいことは苦しいし、人はみな死ぬ。そこに意味を見出さない。魔法はあるとどこかで信じている。奇跡を待っているのかもしれない。漠然と低い確率でなにかが偶然解かれる瞬間を見るのが好きだ。その瞬間しか好きじゃない。

だから私はルービックキューブを手にすると、無為に動かしつづける。なにも考えていないし、なにをする気もない。「それは答えのあるパズルなので解いてください」と誰かに言われてたとしても、はなから信じようとしない。

思考回路に欠陥があり、それを自覚しているがゆえの関わり方であり、自分がその関わり方を選択しているという自覚もある。思考回路に欠陥があるため、誤った問いを解くことを恐れている。恐れと対峙しないように、回避行動を取っているだけ。つまり、問いを積極的に拒絶している。すべて自覚はある。

私は、だから解けない。万に一つの確率と永遠に出会えないことを諦めながらブロックに触れ続ける。これは問いではなく食べ物なのではないか、と思ったりする。あるいは宇宙、魚、色、なににでも変化するしなににも当てはまらない。自由と孤独は同時に在る。

それでも繰り返す。何度でも繰り返す。ブロックを動かしていると、ふいにパターンを発見することがある。数多くの無為な行動のなかに、小さな法則が隠れていることに気づく。そこでようやく、これが解のあるパズルだと納得するに至る。その小さな法則を発見しない限り、私はこれを色とりどりの四角いものとしか見なさない。

問いがあることが自明に見えるなら、問いを俯瞰することがないかわりに、素早く解にたどり着くことができるし、また、その過程を楽しむことができるだろう。

問いを拒絶するなら、解をも拒絶することになるかわりに、奇跡のような偶然を手にすることがある。解にたどり着く確率はおそろしく低いが、同じくおそろしく低い確率で別の世界が見える可能性を秘めている。

世の中に二通りしか人間がいないわけではない。どちらかしか選択肢がないわけではない。問題の性質によって、みなこれらを使い分け、バランスを取りながら生きていく。私は、単に後者を好む。前者は苦手だが、なんとか前者のように関わることもできる。

ルービックキューブで遊んでいるうちに、そんなことが分かった。
という、悲しい話。

あとがき

弊社では、ルービックキューブに取り組むなど、思考のトレーニングを詰む作業は業務として認められています。
ゆえに、ルービックキューブが5秒で解けるエンジニアも募集しています。